日本縦断あくしゅの旅 ~83日間の旅の記録

83日間のすべてを凝縮。

人との出会いや自然とのふれあい。

感動、涙、笑い、苦しみ、そしてつながり。

1618のあくしゅを各エピソードに分けて第40話まで連載してきました。

 

続きに関しては執筆中です。

どうかしばらくの間、お待ちいただけたら幸いです。

 

第14話 ノートに残された足跡

 

翌朝、僕は早起きして列車に乗り込んだ。

降りたのは日本最南端の駅、西大山駅。

 

朝の7時半、下車したのは僕だけで

次の上り列車が来るまで約1時間の時間があった。
 
改札も自動販売機も何もない無人駅でひとり最南端駅に降り立った達成感に酔いしれた。
ひたすら写真を撮ったり周りの景色をぼーっと見つめたり。

 

しばらくしてホームをあるくと無造作にベンチにくくりつけられた

プラスチックのケースが目についた。

 
「思い出ノート」

 

プラスチックのカーバーの中には1冊のノートとボールペンが入っており、

そのノートにはこの駅を訪れた多くの旅人達のコメントが書き込まれていた。

 

きっとこれを作ったのは地元の人だろう。
表紙に書かれた連絡先の電話番号からうかがえた。 

 

素敵だな。

心楽しくさせてくれるこのノートに僕も自分の足跡を残した。

まだまだ始まったばかりの旅。

それでも今まで経験した思い出とこれからの旅の決意を書き記した。

 

ページを閉じる前に他の旅人達のコメントも見ることにした。

「あれ・・・こいつら」

 

それは不思議な3度目の再会。

昨晩の大阪チャリダーの二人のコメントが書き記してあった。
この駅で二人で野宿をしたらしい。

 

「最高の場所見つけましたよ。だれにも邪魔されない星が見えるところです」

昨晩の彼らの別れ際の言葉。

 

「確かにそのとおりだったようだね」

僕はひとり笑いながら、ノートを閉じてプラスチックケースにしまった。

 

第13話 砂蒸し風呂

 

大阪チャリダーの二人と別れてから数時間後、僕は指宿にあるユースホステルで体を休めていた。

既に夕飯の時間も過ぎていたから、食事がてら指宿名物の砂蒸し風呂に入ることにした。

幸いにしてユースホステールの目の前に大きな砂蒸し風呂会館があったのだ。

 

受付を済ませ、着替えて準備。

初めての体験でドキドキしながらサンダルに履き替えて外に出ると

そこにはムンムンと湯気を上げるテントで囲まれた砂場が広がっていた。

 

「どうぞこちらに」

案内係りの人に呼ばれて歩いて行く途中に声をかけられた。

「お、おにいさん」

その声の方向を向くとさっきのチャリダー二人が既に砂風呂に浸かっていたのだ。

なんという偶然。

 

数十分後、お先にといいながら彼ら立ち去っていった。

僕は彼らの宿泊場所が心配で聴いてみた。

すると意外にも得意そうな返事が返ってきた。

「最高の場所見つけましたよ。だれにも邪魔されない星が見えるところです」

 

彼らとの2度目の再会。

そして3度目はもっと不思議な形で再会することになる。

 

そんなこととも知らず僕はゆっくり砂蒸し風呂に浸かった。

今までに経験したことのない全身の疲れを大地の力で癒してくれるような感覚。

汗をかきながら僕はしばしその心地よさにひたっていた。

 

第12話 大阪チャリダー

 

佐多岬で北海道の老夫婦に車に乗せてもらうとき、

僕の姿を見て便乗してきた青年がいた。

 

「自転車折りたたみますので乗せてもらえませんか」

「○時○分のフェリーにどうしても乗りたいんです」

 

彼もまた僕と同じく帰りの時間に絶望を感じ途方にくれてたのだ。

ぎゅうぎゅうに詰めながらワゴンに乗り込み出港5分前に港に着いた。

 

老夫婦に二人でお礼を言いフェリーのデッキから姿が見えなくなるまで

両手を振り続けた。

 

しかしながらここにはさらにもう一人、自転車で旅する青年がいた。

どうやら佐多岬の自転車青年とは前の土地で出会っており、港で偶然の再会だったようだ。

 

僕らカーペットラウンジに移りしばらくお互いの旅話に花を咲かせた。

彼らはたまたま同じ大阪。そして年の近いチャリダーだった。

いささか僕だけ旅のスタイルが大きく違う。

 

それでも彼らとは同じ旅人としてこれからの旅路の成功を誓いあい、

あくしゅをし、そして別れた。

 

でもこの彼らとの別れが一度でなく二度、いや三度にわたることになるのだった。

 

第11話 新聞社への取材依頼

 

沖縄の先輩からのアドバイス。

そして佐多岬で出会った僕と同じ病気を持った人。

 

僕が病気のことをオープンにして旅をしていること。

それがどれだけの意味と影響力を持つことなのだろうか。

 

もう迷いはなかった。

直ぐに地元の新聞社にアポなしで電話をし、僕は旅の趣旨、思い、伝えたいこと。

すべてを受話器を通じて担当者にぶつけた。

 

結局、地元の新聞社には取り合ってもらえなかったけど、

後々、旅を進め様々な人とふれあい経験していくうちに、

僕の思いは自分で思う以上に強く濃いものになり、

全国各地の新聞社で取り上げてもらえることになった。

 

「うつ病に限らず、がん、その他の病気、人間関係、恋愛・・・。いろんなことで悩んでいる人がいる。その人たちにこの行動を通じて何かを感じてもらいたい。エールを送りたい。

「うつ病に対してまだまだ偏見があり、そして理解されていない部分が多い。うつ病をもっと多くの人に知ってもらいたい。わかってもらいたい。」

 

この2つを必ず記事にしていただくことを条件に、

僕は本名で顔写真もありでひらすら新聞社さんに電話をし、時には社屋まで出向いた。

 

有名になりたいわけでもなんでもない。

ただただ活動を通じて、記事を通じて、知ってもらいたい。

 

新聞に掲載される頃にはもう僕は次の場所へ旅立っていた。

だからその後どのようなリアクションがあったか僕はしらない。

 

でもこの地道な活動が、最後の最後、

北の大地、北海道で実を結ぶことになる。

 

そんなこととも知らず僕はただただ旅先の新聞社をできる限り周っていた。

 

第10話 はじめての涙 

 

鹿児島空港近くの宿に素泊まり後、翌日路線バスを2台乗り継いで大泊まで来た。
本土最南端の佐多を目指す一日。 
僕はさっそくヒッチハイクをしたけれども、いっこうに車が通らない。
仕方なく灼熱の炎天下、何十キロもあるバックパックを担いで歩くことにした。

 
道すじ、草刈作業をしているご老人の方々を話をする。あくしゅをする。
「あと1時間かな?」

「がんばってな」

 

時に鳥のさえずりを聞き、時にイノシシが目の前を通り、

そして時に野猿に囲まれる。

そんな自然いっぱいの山道だった。

 

歩き出してから2時間、集落と山の中を繰り返すもののいっこうに岬に辿り着かない。

このあたらいから僕に大きな焦りが襲ってきた。

 

「本当にたどり着けるのだろうか」

「帰りはどうしよう。フェリーに間に合わなければ宿を探さなければならないし。」

 

安易なスケジュールを組んだ自分自身に憤りを感じて

荷物の重さ以上に僕はうつむいたたまま無言でようやく歩いていた。

 

そんなとき一台の白いバンが僕を追い抜きざまに止まった。

「よかったら乗っていきなさい」

 

北海道からこの白いバン一台で2週間ほどの旅に来たという北海道の老夫婦と愛犬。

岬まではあっという間だったけど、一緒に岬めぐりをして、

帰りのフェリーに間に合うように港まで送ると言ってくれた。

 

自分の情けなさと、人の温かさに触れたからなのか、

僕はこの旅ではじめて涙を流した。

 

最後にもうひとつ大切なことを教えてくれた。

「僕も同じ君と同じ病気でね。もう3回も繰り返しているんだよ。」

「君のようにオープンにしていることはとても意味のあることだよ」

「この旅をもっともっと多くの人に知ってもらったほうがいいよ」

 

このときやっと前述の先輩の言葉の意味がわかった。

「メディア」と「社会性」

 

港で老夫婦に別れを告げ、フェリーに乗り込み宿に着いた。

翌日僕はさっそく行動に出た。

 

第9話 先輩が教えてくれた

 

決して「うつ病」を隠すことをせず、

ひたすら会った人と「あくしゅ」をして「ありがとう」を伝える。

病気で辛かったあの日を支えてくれた日本中の人々に感謝をこめて。

 

沖縄那覇で僕はある民間の観光案内所を訪ねた。

「earthtrip」。

沖縄での一人旅のコーディネートをする傍ら、

環境や観光といったテーマを切り口に様々な活動・イベントを繰り広げる会社。

 

その代表の中村圭一郎さんを訪ねるためだ。

この人が僕の人生を変えるイベント「100人で富士登山」の創始者なのだ。

 

アポイントなしの訪問を温かく迎えてくれ、

スタッフとともに生成したという黒糖でもてなしてくれた。

 

僕は今回の旅の趣旨を話した。

すると中村さんからは意外な答えが返ってきた。

いや、そのの僕には「意外」なわけであって後の僕の旅のスタンスを決める

とても大きな言葉だった。

 

「いい旅してるな。この建物の裏に新聞社があるから行ってきな。

 社会性を持ってやってる旅なんだからさ。活動っていうか」

 

確かそんな言葉だったと思う。

でも僕はその言葉のひとつも理解することができなかった。

 

有名になりたいわけじゃない。

僕はあくまでも、まわりへの「ありがとう」の旅をしている。

テレビや新聞といったメディアに露出することなど毛頭考えていなにのに。

そして「社会性」という言葉に込められた真意に気づくこともなかった。

 

でもそれらに気付かされるのにそう時間はかからなかった。

次に訪れた鹿児島県で、僕の旅の方向性は一気に加速する。

 

その時に改めて「中村さんはやっぱり僕の先の先を生きている」ことを思い知らされることになった。

 

第7話 つなげるということ

 

今まで周りを寄せ付けず、いつも自分で作った空間で一人ぼっちだった僕が、

今日(こんにち)のように人と接して「つながり」というものに傾倒するようになったのにはひとつなきっかけがあった。

2007年8月の「100人で富士登山」。

すべてはここから始まったといっても過言ではないのだから、

ここで一言で話せることではないのだけれど、

そこで出会った一人の男が後の僕の人生に強烈な影響を与えたのだ。

 

彼の考えや判断、物事の組み立て方など、

それはただの友人としての付き合いの枠を超えて僕は日々勉強させてもらった。

 

そんな彼が僕がこの旅を決意したときに真っ先に、自分の実家に泊まることを勧めてくれた。

彼本人がいない沖縄の実家にだ。

 

最初は驚いたし不安でしょうがなかった。

それは同時に彼のご両親もそう思ったことだろう。

でも彼の考え方は僕の想像を大きく超えていた。

そこには彼なりの「つながり」があった。

 

沖縄本島糸満市の彼の実家に一泊させてもらった。

ご両親は温かく迎えてくれ、食事をいただき、沖縄文化の話を教えてくれ、

そしてシャワーから暖かい布団まですべてが用意されていた。

それはそれは有意義で心満ちる時間だった。

 

しかし何ゆえ彼本人がいないのにこんな楽しい空気が漂ったのだろう。

 

彼は両親にこんなことを言っていた。

「俺だと思って接してくれ。息子が帰ってきたと思えばいいんだよ」

それと同時に僕にはこう言った。

「家に帰ったと思えばいいんだよ。親にもそういってあるから」

「ひとつお願いがある。両親がどうだったか見てきてもらいたいんだ。

 それを俺に伝えるのも『つながり』。つなげるっていうことなんじゃないかな」

 

つなげる。

つながる。

 

僕の大好きな言葉をこの旅で初めて行動して実感した出来事だった。

 

第6話 もずくの仕込み

 

木造赤瓦の民家と白砂の小道で有名な竹富島に行った。

中心部にある「なごみの塔」からはその街並みがよく見える。

 

夜の暴風雨なで予測もせず、僕は歩いて町を散歩した。

赤瓦の街並みを抜けると星砂で有名なカイジ浜に着いた。

しばし休憩。

観光バスが着いては15分ほど星砂探しをし、

そしてまたあわただしくバスに乗り込み走り去って行った。

これがいまの日本の地方観光の現状なのだ。

 

観光ブックに掲載されているスポットに行った事実だけが残る。

つまりはひとつの確認作業のような単調なもの。

ちょっぴり寂しい気持ちになった。

 

それからコンドイビーチを抜け宿に戻ると、

宿主が何やら大きなポリバケツに入った茶色い糸状のものを扱っていた。

話を聞くと海で採ってきた「もずく」を仕込んでいるとのこと。

 

僕は他の宿泊客を横目にその作業を一緒に体験さていただくことにした。

この旅ではいろいろな経験をしたかったからだ。

 

ゴミをとり塩を入れて揉み混ぜる。

その作業を永遠2時間続けた。

 

「ありがとう、これでアンタの肌もすべすべだよ」

 

宿主のお父さんの顔も、そして僕の顔を笑顔でいっぱいになった。

 

第5話 あくしゅボードの裏側

 

与那国島で泊まっていた宿。

そこは口コミで広がった旅人にはかなりディープな場所だった。

 

宿主のおじぃはとても優しく気さくだったのだが、

はなれに通された僕と同じスペースで生活していた中年おじさんはとても気難しい人だった。

ここには2泊したけれど正直そのおじさんと一緒にいる時間だけでも、

とても疲れて早く寝たい気分だった。

 

2日目の夜だっただろうか?

おじさんに「お前、握手断られただろ」と唐突に言われた。

 

確かに飲食店で握手を求めたとき、一人の青年に断られた。

僕は「まぁそんなこともあるだろう」とさほど気にも求めていなかったのだが、

おじさんは厳しい口調で続けた。

 

「島というのはとても閉鎖的だ。しかもよくわからない活動してればすぐ目立って噂が広まる。なんで握手してるのか全く意味わからん」

そんな類のものだった。

 

僕はかなり落ち込んだ。

厳しい口調というよりは怒られた感じだし、

それ以上に旅を否定されているかのようだった。

 

それでも僕はその晩、寝る前に考えた。

「どうしたらこの旅を多くの人に理解してくれるのだろうか」

 

そして思いついたのが、

僕が首から下げている「握手の人数」をカウントするためのボードの裏側に、

旅の概略を簡単に書くというものだった。

 

握手の説明をする際、旅の説明をする際、

このボードを使いながらゆっくり説明する。

 

このスタンスができたのがこのときだったのだ。

後に、このボードでの説明が相手への安心感と信頼感を与え、スムーズに握手できるアイテムとなった。

 

翌朝、別れ際おじさんにボードを見せた。

嫌味ばかりのおじさんが笑ってくれた。

 

おじさんは本当にとても人を大切にするいい人だったのかもしれない。

 

第4話 伝統を守る90歳

 

与那国民族資料館に行った。

民族資料館といっても自宅を改造した建物。

 

管理者は池間苗(いけま・なえ)さん90歳。

与那国の歴史や文化、島独特の伝統や言葉などが所狭しと展示してあった。

そのひとつひとつをゆっくりと時間をかけて説明してくれるのだ。

 

「もっと立派な資料館を作りたいんだけどね~」

池間さんの思いは強く、他の島の資料館を見てそう思ったらしい。

 

でも僕の考えは違った。

一日数人しか訪れない小さな小さな資料館。

でも少しでもこの与那国という島を知ってもらいたくて独自で運営している姿に、建物の立派さはいらないと思えたからだ。

 

最後にあくしゅと同時に手のひらを撮らせてもらった。

そこには与那国で暮らす90年のしわが確かに刻まれていた。

 

第3話 車より…徒歩

 

波照間島を後にし、石垣島経由で与那国島に入った。

日本最西端の碑がある島。

そのほかにも歴史的な背景から様々な史跡、文化が残る島。

 

僕は宿に置いてあった無料の自転車を借りて走っていた。

島の規模からしたら本来は車で移動するのが一般的だ。

でも僕は自転車にこだわった。

少しでも多くの人と接する機会の多い交通手段にしたかったからだ。

 

最西端に向かう途中に歩いている老夫婦が声をかけてくれた。

すれ違い様だったので手を振るのみ。

 

それから数時間自転車を走らせた。

起伏の激しいロードを走り、ドラマのDr.コトー診療所や史跡のひとつダティグチディ、日本古来種の与那国馬などを見学した。

 

宿へ戻る途中に再びさっきの老夫婦に会った。

せっかくなので自転車を止めベンチに座りしばらくお話をした。

老夫婦はこの起伏に富んだ島を、やはり歩いてすべて歩いて周っているとのことだった。

 

理由を尋ねるといかにも答えは簡単なものだった。
「こんな素敵な島、歩かないともったいないだろ」。


たしかに車よりバイク。バイクより自転車、そして自転車より徒歩。

人間はその足で大地を感じることが大切なんだとその時教えられた。

 

第2話 いきなりの取材

 

波照間島は真っ青に晴れ渡ってた。

空も青、海も青。

サトウキビ畑の収穫がそろそろ終わりを告げようとしていた。

僕はその中を借りた自転車で疾走。

背中に垂れ幕をぶら下げるその姿は周りから見たらいささか不思議に感じたかもしれない。

 

同じ宿の子に勧められて、特産の泡波という焼酎を原料に混ぜたアイスクリームを食べに行った。

さしてお客様の出入りもないその空間で僕はアイスと握手を求めた。

ちょっと怪訝そうな顔をする店主のお姉さん。

気まずい雰囲気の中、僕は溶けそうなアイスを舐めながら店を後にした。

 

その直後だった。

 

「すいません、取材させてください」

 

店主のお姉さんはお店そっちのけでカメラを抱えて出てきた。

どうやら日本縦断をする人間は数知れど、握手をしながらの日本縦断者に出会うのは初めてだったらしい。

 

僕は木の下に座らされ、ひたすらファインダーに目を向けた。

そして暫しの取材。

店主のお姉さんは、地元新聞社の離島特派員で、お店をやりながらニュースを本社へ送っているとのことだった。その他にも雑誌のライターなどもしていて、必ず掲載する旨を伝えてくれた。

 

しかしその後、数日たっても結局新聞には掲載されなかった。

僕はこのときメディアに出ることに関心はなかったので気にしなかったが、

店主のお姉さんが言ってた「・・・その他にも。。。」があとあと大きなことになることは、この時点で知る由もなかった。

第1話 最南端の地~いざスタート

 

確かに僕はこの地に立っていた。

日本最南端、「南の果て」という意味から名付けられた小さな小さな離島、波照間島。

 

フェリーで港に到着。迎えの車に揺られ走ること5分、宿に着いた。

 

Tシャツにジーパン、そして長旅を考えて足元はスニーカーではなくウォーキングシューズ。

日本縦断するには少々小奇麗な格好で、春休みの旅行客といった感じだったかもしれない。

その旅を表すものは2つ。

真っ赤なバックパックに安全ピン留められた「日本縦断あくしゅの旅」という垂れ幕と、

首から下げた「あくしゅの人数」と書かれたカウントボードだった。

 

宿で出会った学生の2人と挨拶し、僕はひとつのお願いをした。

「これから日本縦断の出発式やるんだけど手伝ってもらってもいいかな」

 

2人は快く快諾してくれ自転車を借りてスタート地点である、日本最南端の碑に向かった。

観光客がちらほらいる中、僕はバックパックからあらかじめ外しておいた垂れ幕を手に持ち、

二人に「スタート」と書かれた布テープを持ってもらった。

 

いざスタート。

スタートテープを切るとちょうど同じタイミングで来たバスツアーの方々が拍手してくれた。

旅の説明をしたり、一緒に写真を撮ったり。

 

そしていよいよ最初のあくしゅ。

僕が声をかけてスタート式を手伝ってくれた学生の女の子だった。

はじめてのあくしゅ。

ちょっと照れくさくって、でも笑顔で。

 

このあくしゅからついに僕の旅がスタートしたのだ。