日本縦断あくしゅの旅 ~旅のきっかけ

~自分中心だった日々~

東京で生まれ4歳の時に山梨へ引越し。

幼少期…少年期…そして青年期を山や川、森や風など自然いっぱいの中で

伸び伸びと過ごしてきました。

就職を機に東京で一人暮らしをスタート。

田舎から上京したコンプレックスなのか、負けたくない気持ちがあまりに強すぎたのか、

僕の中で「仕事が最優先」「自分中心」という価値観がいつしか植えつけられていました。

来る日も来る日も休まず仕事。

ただひたすらピラミッドの頂点を目指すことばかりを考えてました。

でもその時の僕には、それがステータスで自分の存在を表せる唯一の手段だったのかもしれません。

とにかく仕事ばかりをし「自分さえよければいい」。

そんな毎日でした。

 

 

~変化に気づいた27歳~

役職にもつき出世街道をまっしぐら。

しかし仕事がわかってくればわかってくるほど自分のやりたいことが見えてきて、

その考えと現実との間に徐々にギャップが生まれてきました。

「なんか違うな・・・」

そう感じはじめていた27歳の春。

たまたま取れた連休を利用して2泊3日の人生初の一人旅をしました。

最初の宿で集まった人たち。

年齢も性別ももちろん職業もバラバラ。

でも一つだけ共通していたことがありました。

それは「旅」というテーマを通して自分自身を強く持っていたこと。

僕はその時「仕事」以外にこんな世界があるんだ!と驚くとともに、

人としてのアイデンティティの強さを痛いほど感じました。

はたして僕に、僕自身に、「個性」があるのだろうか。

 

 

~100人で分かち合った涙~

「旅」に興味を持ち始めた僕は、その年「旅の頂点」を極めることを決意しました。

その頂点は、なぜか「富士登山」。

旅ではなく登山ではないかとおもわれると思いますが、

まだまだ上昇志向が体に染みついていた僕にとってはいたってシンプルな答えでした。

ネットでたまたま見つけた「100人でフジトザン」という企画に参加。

初めて会った100人と1泊2日の富士登山に挑戦するこの2日間が、僕の人生の大きな大きなターニングポイントとなりました。

初めて会った名前も知らない他人。

でも頂上を目指すというただひとつの共通の目的のために

食糧を分け合い、水を分け合い、声を掛け合い、荷物を持ち合い。。。

分け合う、分かち合う。

今まで自分中心に生きてきた自分にとって、「他人と助け合う」という行動を何の抵抗もなく普通にみんなが行っていることに・・・感動を受けました。

そして頂上。

僕はひとり人目もはばからず、号泣していましました。

心からの大涙。

「自分中心」→「人と助け合って生きる」という図式がこの日生まれました。

 

 

~病に倒れた春~

今までどおり仕事場で自分中心の一匹狼でいる自分。

旅仲間と心を分かち合う自分。

ふたりの自分を使い分けることに疲れてしまったのかもしれません。

ちょうど新しいプロジェクトもはじまり、多忙になってきた2月、僕の体は場所に崩れていきました。

最初は寝付けない。それが寝ても目が覚めるにかわり、最終的に眠れない、になりました。

食欲も減退し、最終的にはひたすら水のみを飲む毎日でした。

満員電車がつらくなり怖くなり乗れなくなりました。

仕事場につくと冷や汗ばかりが流れてきて何をすればいいのかわからなくなりました。

何も考えられず心臓がバクバクと鼓動を上げる。

2008年5月末。

病院で診察を受け僕は「うつ病」と診断されました。

 

 

~闘病・支え・そして~

「うつ」との闘いは本当に辛いものでした。

それは言葉で言い表すことができるものではなく、今まで経験したことのない苦しみでした。

そんなとき僕のことを支えてくれたのが、

上京してからさして連絡もとっていなかった両親であり、

ライバルと思っていた会社の同僚であり、

そして富士登山以来にできた旅の仲間でした。

山梨の両親のもとで、ゆっくりゆっくり時間をかけながら、この病と向き合い、徐々に快方に向かっていくことを願いました。

辛い毎日とそれでも支えてくれる周りの人々。

病気と闘う中で僕の中にひとつの気持ちが生まれました。

「病気が治ったら。少しでも体が動くようになったら。助けたくれた人に感謝を伝えよう。日本中の人にありがとうを言おう。」

そう思えてから病気もゆっくりですが快方に向かい、薬の量も日に日に減っていきました。

そして年が明けた2009年1月、自分自身を裸にすべく9年勤続した会社を正式に退職。

日本中の人と「握手」をしながら「ありがとう」の感謝を伝える、

『日本縦断あくしゅの旅』を3月10日スタートさせたのです。